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らんどまあく@千葉

富津岬沖の海堡

2009年11月12日

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 「ひどく崩れている。これでは100年後には海に戻ってしまう」。10月下旬、富津岬の先端の東京湾口に浮かぶ第一海堡(かい・ほう)を一緒に海から見た東京湾海堡ファンクラブの小坂一夫会長(62)が顔を曇らせた。海堡南側に、以前にはなかった大きな崩れを見つけたのだ。

 島全体が薄茶色だった。台風の大波が打ち寄せたのだろう。「大南(強い南風)で海堡全体が潮をかぶったに違いない」

 岬の西方、富津市域の東京湾にある二つの島が海堡だ。往来する船に、そこが湾口であることを告げるランドマークだ。

 海堡はもともと、明治国家が首都・東京を防御する砲台を据えるために築いた人工島だ。深い海、潮流も速い。ろくに土木機械もない時代、軍に雇われた富津の漁師や農民が石や土砂を運び、作業に携わった。

 同市千種新田に住む雨笠正昭さん(68)の祖父も現場で働いた一人だ。「おじいさんの首の後ろに大きなコブがあった。モッコを担いで石や土砂を運び、タコになったと言っていた」

 第一海堡の近くまでノリ養殖の網が広がっていた。岬の外湾側は新富津漁協の漁場だ。沖合約3キロ、岬に沿って6キロほどの海に179区画。漁場というより水を張った田んぼのようだ。

 漁場の6地点で、漁協の観測船「拓南」が海水温や透明度などを調べている。平野裕巳船長(62)は「海は毎日、表情が違う。海中も浅瀬ができたりなくなったり日々変わる」と話す。

 海堡から砲弾が発射されることはなかった。「しかし」と安室真弓・同クラブ幹事(76)は強調する。「日露戦争ではロシアのウラジオストク艦隊が房総沖に現れたが、海堡が抑止力になった。海堡がなかったらロシア艦が湾内に入り、東京は艦砲射撃されたに違いない」

 第一海堡は岬と陸続きで自由に遊びに行けた時代もあった。今は海が遮り、財務省も不発弾存在の可能性を理由に立ち入り禁止を続ける。海上保安庁が管理する第二海堡も上陸禁止だ。

 幕末、黒船の砲艦外交から江戸を守った品川沖の台場は国史跡で都立公園になっている。明治期の緊迫した国際情勢と海洋土木技術の高さを象徴する歴史遺産である二つの海堡は、荒れ果てたままだ。(高山修一)

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