ここから本文エリア

現在位置:asahi.comマイタウン鹿児島> 記事

(2)村田新八・村田経容さん

2008年01月03日

写真

 村田新八との出会いは唐突に訪れた。
 さつま町に住んでいた小学6年の時、修学旅行で見学した鹿児島市の南洲神社で、担任の先生から不意に声をかけられた。
 「君のひいおじいさんは、すごく偉い人だったんだよ」
 維新の志士らが眠る墓地。新八が何をした人なのか分からず、「お墓が大きな人という印象しかなく、『そうなんですか』と聞き流した」。
 それまで一度も曽祖父を語ったことのない父がその日、口を開いた。西郷隆盛の懐刀だったこと、岩倉使節団の一員として欧米に行ったこと、西南戦争で西郷とともに城山で自刃したこと――。「ずいぶん偉い人の子孫だったんだ」と感心した。
 新八の遺産は自宅になく、記憶は徐々に薄れていった。
 35年後、この「出会い」がまさか自分の命を救うことになるとは、その時、思いもよらなかった。
      *
 薩摩川内市の高校を卒業し、41歳で自動車販売会社から損害保険会社に移った。2人の子どもに恵まれ、成功への階段を確実に上っていると信じていた。
 人生は突然暗転する。
 6年後、事業を興そうとした知人の息子の連帯保証人になったが、失敗に終わり、3150万円の債務を背負い込むことになった。取り立ての矛先は会社にも向き、仕事を失った。20年近くかけて鹿児島市内に建てた家も債務返済のため売り払った。
 ある夜、山中のがけから身を投げようとした。
 「もう楽になろう」
 その瞬間、立派な口ひげの曽祖父の肖像写真が頭に浮かんだ。「維新の英雄の子孫が借金苦で自殺? そんな先祖に申し訳ないことはできない」。あと一歩のところで思いとどまり、山を下りた。
 高利貸に車で山中の小屋まで連行され、3日間の軟禁中に「生命保険に入れ」と強要されたこともある。銀行員の弟から「自己破産の方がいい」と説得されたが、「新八の子孫が破産したら恥だ」と言い返した。
 新八は1862年、西郷らと倒幕の挙兵を扇動したとされ、島津久光に喜界島に流された。沖永良部島の西郷とともに赦免されるまでの約2年間、じっと耐えた。
 自分も風呂設備の販売と保守点検を請け負う仕事を粘り強く続け、05年4月にようやく借金を完済した。
      *
 流れ流れて、今は民間企業の独身寮の管理人を務める。94年から寮に住み込みながら、毎朝、6畳の風呂場の床をブラシで丁寧に磨く。賄いを作る妻とともに、9人が暮らす寮を切り盛りする。
 新しい介護ビジネスの夢を抱くようになった。
 「長い長い島流しがようやく終わったところ。人生、これからですよ」
 計画の中身は温めているところで、決して他言しない。
(吉永岳央)

PR情報
朝日新聞購読のご案内

ここから広告です

広告終わり

マイタウン地域情報

ここから広告です

広告終わり