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(6)桐野利秋・加藤房子さん
2008年01月07日
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「もうおばあさんだけど、私、桐野に似てるって言われるのよ」。桐野利秋がフランス製香水を愛用したと聞き、自身もほんのりと同国産の香水をつけている |
太平洋戦争の戦局が悪化し始めていた1943年8月。出征を控えた父に連れられ、鎌倉に2泊3日の旅に出た。
「お前に話しておきたいことがある」
曽祖父に桐野利秋という豪快な薩摩武士がいた。フランス香水を愛用するしゃれ者で、情に厚かった――。
「かっこいい」
10歳の少女は父と江の島の海岸を散歩しながら、胸をときめかせて聞いた。
「利秋は特に仁義と礼節を重んじた。伝えてくれ」
4カ月後、父は南方で戦死した。
桐野の長男利義には、父を含めて6人の子どもがいた。戦争が一族を引き裂いた。兄弟に戦死者が出て、台湾と満州から戻らない姉妹もいた。
横浜で生まれ、東京で育った自分は孤立感を味わった。
*
それから25年後、2児の母となった。戦後、東京都内の建築事務所に勤め、のちに事務所の社長となる男性と結婚していた。
育児で忙しかったころ、「桐野の子孫」として週刊誌の取材を受けた。写真を撮られ、記者に少し話をした。しばらくして、息をのんだ。
〈人斬り半次郎の子孫、優雅にお花の師範〉
誌面に、そんな見出しが躍っていた。「人斬り?」。桐野が描かれた歴史小説をむさぼるように読んだ。
〈桐野は自顕流の使い手で、幕末に『人斬り半次郎』と恐れられた〉〈はやる桐野が西郷隆盛をたきつけ、西南戦争を起こして多数の死傷者を出した〉〈無学で読み書きができなかった〉
凶暴な男の肖像が、ちまたにあふれていた。どれもこれも、父から聞いた桐野とは全く違っていた。
「先祖のことも、何もかも、もはや言うまい」
心を閉じた。
*
50代も半ばのころ、凝り固まっていた心が鹿児島市の南洲墓地でほぐれた。桐野の墓がきれいに掃除され、花が供えられていたのだ。
「父から『伝えてくれ』って言われたのに……」
名もなき人々が慕ってくれている。約20年もの間、沈黙した自らの不明を恥じた。
桐野の日記を読み返した。1867年、ある兵学者を「西洋かぶれで国に害を及ぼす」として斬った。記録に残る桐野の暗殺は、この1件のみ。動機を「佐幕派の間者だったから」とみる研究者もいる。だが、桐野は維新後に「判断を誤った」と悔やみ、寝所でうなされたという。
晩年の桐野が暮らした鹿児島市本城町に石碑が建つ。佐賀の乱に敗れた男2人をかくまい、捕らえに来た役人を恫喝する逸話が刻まれている。
夫の建築事務所は地雷で手足を失った人々の支援施設に力を入れている。
「もし桐野が今生きていれば、同じことをしたかもしれない」
仁義の人の足跡を伝えるのが天命と悟っている。
(山根久美子)
桐野利秋 1838年生まれ。偵察役として長州と土佐の内情をつかみ、薩長同盟の下地を作った1人とされる。陸軍少将に昇進したが、征韓論で敗れた西郷と下野した。加藤房子さんによると、桐野は私学校生徒の決起を耳にした時、「はやまった!」と叫んで抑えようとしたという。西南戦争では薩軍の総指揮を執り、西郷の死を見届けてから、戦死した。
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