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(8)大久保利通・大久保洋子さん
2008年01月09日
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東京から訪れたモーニング姿の紳士と和服姿の淑女が居並ぶ来賓席で、背筋をぴんと伸ばして座る14歳の少女が人目を引いた。
「ガチガチでした」
そう振り返るのは、1979年、鹿児島市西千石町の甲突川河畔であった大久保利通像の除幕式。係員から幕につながるひもを引っ張るように求められた少女は、粗相のないようにと考えていた。
同席した祖父母は別の意味で緊張していたのかもしれない。「1877年の西南戦争で西郷隆盛を自決に追い込んだ」。かつて故郷にそう敵視された男の子孫として。
男の銅像が建つまで、その不慮の死から101年の歳月を要した。除幕の前夜、像にいたずらされる恐れがあるとして警備がついた。
大久保利通と本家の子孫たちは故郷から遠く離れた地で静かに暮らしてきた。
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曽祖父は地方自治を専攻し、ドイツで博士号を取得。1府3県で知事を務めた。祖父は日本近代史学の大家だ。クラシック音楽を楽しむ両親のもと、幼稚園から大学まで世田谷の自宅から近所の成城学園に通った。
一人娘。竹の子族も松田聖子も縁がなかった。「どこでだれが見ているか分からない」。その意識が常に居ずまいをたださせた。
29歳の時、ためたお金で3年間、フランス西部のアンジェに留学した。古城がある町で修道院の寮生活をし、仏語と美術史をひたすら学んだ。
地元の学生は首をかしげた。日本人と言えば、カメラをぶらさげ、ブランド品の買い物袋を抱える観光客と思い込んでいたからだ。
174センチのすらりとした長身も、そんな印象からかけ離れていた。178センチだった利通譲りだろう。
「玄孫ですから、さすがに血は薄れていると思います」
だが、岩倉使節団の一員として利通が滞在したパリで、石畳を踏んだとき、「どこか観光気分ではなかった」と後で気づいた。
「どこかでつながってはいる」。おぼろげに感じた。
*
利通、利武、利謙、利泰。自分は「利」がつかない女性。独身でもある。
跡継ぎは「男の人にしかできない」と思っていた。それなのに当主だった祖父が13年前に亡くなると、「1代迫ってきた」と重圧を感じた。
銅像の建立に立ち会った祖父、自邸で保管していた利通の書簡類を国に納めた父。
「世代ごとの役回りがあるのかもしれない。女性なりの視点で、私にもできることがあるのではないか」
明治という名の新たな近代国家の礎となった巨人にしては、つつましい愛用品が成城の自邸に残る。小指ほどの大きさの判子。これで書類を決裁していた。
子孫として、こまやかな感性まで想像できるという。
(古城博隆)
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